昭和42年03月19日 朝の御理解
合楽のお広前で、初めて朝の御祈念を、共々に奉仕さして頂いた訳でございます。昨夜、皆さんが、帰られましてから、後片付けなどすまして貰うて、今日の朝の御祈念が出来ます為に、いろいろ準備を致しておりましたから、もう休ませて頂くのは、二時でございました。そして、今朝の御祈念をこうして頂いております。今朝は、皆さん、朝の御祈念に、このように沢山ご参拝があっております。
合楽教会、初まって、その初日、初めての朝の御祈念だというので、皆さんが少しは、夕べも遅かったけれど、気張ってお参りをして来られた、という様なものが、もしあるとするなら、気張ってというところを、これから、おかげを受けていかなければなりません。実は、その気張ってというのであっては、長続きしません。人間というものは、何時も気張ってばかりおれんのでございます。
そこで、私、思いますのに、それが気張ってというのでなくて、当たり前の事としてなされる。いや、有り難い事としてなされる。その時に、私は、お互い本当なもの、本当な、言うなら、朝参りが出来ると言うのではなかろうかとこう思うのです。どうぞ、そこんところを皆さん、よくよく分からして貰うて、はあ、自分なまだ、気張ってるんだなと。その点、私は、おかげを頂いて、気張ってということがない。
椛目のお広前で、おかげを頂いておったことも、ちょっとこう、勝手が違うという感じが致します。けれども、これはおいおい慣れてくる事でございましょう。けれども、ご神前の座に着かせて頂いて、本当に一分一秒でも、例えば時間の上においても、切らすような事があってはならないと、ということが、ひとつも気張ってじゃないというところ。それが修行であると思わして頂いておること。
しかもその修行がです、生涯続いても、いや続かせて頂かなければ相すまんのであり、又続いておるということがです、有り難いのです。ですから私のは、長続きがすると自分で思うのです。皆さん、昔から、朝起きは三文の得と、信心を抜きにしましても三文の得といわれるくらいでございます。まして神信心に、特にお道の信心においてでございます。お広前の金光様が四時のご出仕。
それをもう、いうなら百何年間、ご本部のお広前では、それが、当たり前のごとくして続けられておられます。教祖の神様、二代様、そして三代様、四代様と。ですから、やはり、それに神習わして頂くのが、そこからお互いの信心が生き生きとしてくる。生き生きとした信心から、生き生きとしたおかげが伴う事は、これは言うまでもないことでございます。朝の御祈念に、生き生きとした喜びをもってお参りが出来る。
そのことが、当たり前の事として出来るようなおかげを頂いた時、私は、本当のお道の一人前の信者という様な事が言えるのじゃなかろうかと。今朝、ご神前で頂きましたことが、今度、こちらに、咋日、お供えを頂いとります、お風呂に使います湯桶です。今はどこもプラスチックやなんやらで出来とりますけれども。咋日、私が頂いた。三つを頂いた。真鍮の輪のはまった、薄ての桶の、洗い桶なんです。
確かにそれを頂いたんですけれど。御神眼に頂きますと、その湯桶が、輪がこう緩んでおるんですよね。いわゆる、ガタがきてるんです。もちろん、これで水など汲める筈はないという様な感じで頂くのです。ははぁこれじゃ、水も漏らさんというおかげにはならんなあと。これじゃお風呂に入らせて頂いても、いわば本当の皆さんお風呂に入る時には、はあ極楽と、皆さんが言われるでしょう。思われるでしょう。
一日の疲れを、お風呂に浸らせて頂いて、はぁ極楽極楽と。口には出さんでも、そう感じられるでしょう。私共が、極楽を感ずる時に、神様も又、極楽を感じて下さる。氏子の苦しみは、そのまま神様の苦しみとさえ仰るのですから。私共が極楽を感じる時には、神様も極楽を感じておって下さることなんである。ここの地名が合楽と申します。いわば共に楽をする。楽をするということは、意味を間違えてはなりません。
もちろん極楽です。共におかげを頂くという事なんです。いわゆる「神も助かり氏子も立ち行く」と言うのです。神と人とが、一緒に栄えていこうと、一緒に喜びおうていこうと。信心共栄の道なんです。神と人とが一緒に栄えていこうという道なんです。ということは一緒に喜び合うていこうという。私は合楽という地名にはそういうような、昔の昔からそういう私は神定めの物があったという風にしか感じられません。
その言わば、ところに、その極楽を感じさせて頂かなければならない合楽。そのお風呂の湯桶が、ガタが出来ておったんでは、これは本当な極楽は感じられないという事でございます。と言うふうに、私は、心に感じたのです。そこで神様、そういう様なおかげを頂かせて頂くためには、そういう様なおかげを頂かせて頂くためには、どのような信心をさせて頂き、どのような信心を願いとして進めて参りましたら。
神も喜び氏子も喜び、神と氏子とが一緒に極楽にいっておる、合楽のおかげが受けられるだろうかと言うことを、私は、思わせて貰い、その事をお伺いさせて貰いましたら、漢字で、田主丸という事を頂きました。いや、田主丸というのが、確かに、田主丸なのですけれども。その丸という字にですね、点が欠けておるんです。田の主という事は私は例えば、大国の主の命ということを申しますね。
大国主の命というのは、俗に言う大黒様のことなんです。大きな田の主という意味なんです。その田主丸のだけれども、その丸という字に点が欠けておる。だから田主九(たのしく)と書いてある。ははぁこれは田主九(たのしく)、田主丸じゃない。いわゆる、私が、先程から申しました、朝のお参りが楽しゅうなるということ。朝の御祈念がです。それが、お参りさせて頂くことがです。
もう今日一日の第一歩が朝参りから始められるのだ。いやそれが当たり前の事として始められるのだ。それがいわば気張ったものでもなかならければ、これは頂かんならんから、これは貰わんならんからと言うものではなくて、それが当たり前の事として、なされるような信心を、おかげを蒙らせて頂く時にです。本当の合楽的おかげになるのであるんだという事を感じると同時に、又次にこういう事を分からして頂きました。
楽しく信心が楽しい朝参りが楽しい。そこに勇ましいまでの生き生きとした。だから過程においては気張ってでもお参りをしてくる。そのうちにです朝参りの信心の徳が身について参りましてそのことが段々有り難うなってきて、おかげを頂く参らな気持ちが悪か。毎日参りよって、参らんならやっぱ気持ち悪か。そういう信心ではつまらない。それは信心はアヘンの様なものだと言われる由縁は、そこにある。
参らな、気持ち悪いから参るのじゃなくて。
有り難くて、お参りしなければおられんのである。そこに私は田主丸という、丸という字に点の欠けた、いわば田主九ということと同時に、私が頂きました事は、感じましたことはです。丸というのは円満なこと、和のこと。おかげがあるもなきも和賀心と仰る、その和賀心のこと。その丸という字にです。何かが一つ欠けておるんだということ。私は、どうして信心が楽しくなれんのだろう。
私の信心は、いつも、どうして気張った様な信心なんだろう。とまあ、皆さんが思われて、何かが欠けておるならです。何かが、言わば、点一つ欠けておるんだ。丸という字から点を一つ退けますと、九という事になる。九は苦労なのである。私は、朝参りがこんなに苦になっておる。苦になっておったんでは、これは本当のおかげではないと仰るが、どうして有り難うなれんのだろう、と思わして頂くことなんだ。
そして何かがそこに一つ、欠けておるということ。それは銘々に違うでしょう。自分にこういう思い方。これでは真の信心を焦点にという信心じゃない。ここが思い方が間違っておる。ここの修行の具合が違っておるんだという、何かそこのところに一つ間違っておってもです、丸にはならないという事。どうぞ一つ皆さんおかげを頂きましてね。いわゆる田主丸のおかげになっていかなければならんのであります。
同時にそのことから二つのことを私は感じた。それは信心が田主九ということ。椛目のお広前においても、合楽のお広前においてもさほどにさほどじゃない。全然違うというものを感じない。ご神前に座ったが最後同じものしか感じない。やはり延長なのである。ただ、お広前、桧の木の香のするご神前に座わらして頂いておるという事が違うだけ。ここに少し、勝手は違うけれども、内容においては変わらない。
そして今日は遅かったからと言うて、気張るということもなしに、こうして務めることが出来、奉仕さして頂くことが出来るということはです。なんと自分ながら、有り難いことだなあ。おかげを受けておるものだなあと言うことを感じるのでございます。どうぞ皆さんの信心が、まずいや信心じゃない。信心生活が、朝参りから始められる。その朝参りが楽しゅう、嬉しゅう楽しくおかげを頂かせて頂けれるところまで、信心修行を自分のものに身につけていかなければならんという風に感じるのでございます。
どうぞ。